こんにちは。【心を整える専門ノート】へようこそ。
お正月が過ぎ、鏡開き、そして一月の連休も明けました。明日からはお仕事のスイッチを「MAX」に切り替える方も多いのではないでしょうか。三月までの年度末に向けて、ラストスパートの時期ですね。
私個人としては、4月に二人目の孫を迎える予定です。今日はそんな節目の時期に、私の子育ての記憶、今だからこそ振り返れる「家族の物語」をお届けしたいと思います。
2010年3月:運命の分かれ道だった娘の合格
2010年、娘は県内の進学校を卒業し、無事に国立大学の医学部(医療技術科)に合格しました。超難関を突破したことで、彼女の人生の運が開けていきました。
実は、この合格は「運命の分かれ道」でもありました。もし不合格で一年浪人していたら……。翌年の2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。当時は二次試験の実施が困難になり、一次試験の結果だけで合否が判断されるという異例の事態に。もしそうなっていたら、今の彼女のキャリアは違ったものになっていたかもしれません。人生には、紙一重のタイミングがあるのだと、今でも娘と話すことがあります。
3.11 東日本大震災:家族の安否とあの日
あの日、娘は東京ディズニーランド(TDL)にいました。浦安市が液状化するほどの大きな揺れの中、TDLのキャストの方々の素晴らしい誘導で一夜を明かしました。
私は営業の外回り中、車に乗った瞬間に激しい揺れを感じました。すぐさまコンビニのATMでお金をおろし、ただ事じゃない!と思いながら必死で帰宅。中学生だった息子とも合流し、娘の安否をLINEで確認し続けました。あの未曾有の大災害から、もう15年が経つのですね。
会社のバスツアーに参加していなかった私
3.11の日は、勤めていた生命保険会社で日帰りのバスツアーがありましたが、私は参加していませんでした。バスツアーに参加した同僚は、本当に大変だったと言います。その進行方向が福島県に向かっていたのです。間一髪で翌日、皆さんは無事に帰ってこられました。
会社のある8階建てのビルは、大変大きく揺れて、コピー機や机などが大きく動きました。階段の壁が剥がれたり、しばらくはビルに入れなくなりました。
2014年:夢を叶えた娘の「第一歩」
大学を卒業した娘は、地元の基幹病院に内定をいただきました。 履歴書の書き方も、切手代も知らなかったほど世間知らずだった娘。アルバイトの塾講師歴を「職歴」に書かせたことも今では懐かしい思い出です。そんな彼女も、現在は臨床検査技師としてバリバリと働くプロフェッショナルになりました。
息子の苦悩:高校・大学での「登校拒否」
一方で、息子は波乱万丈でした。 高校へは5位という好成績で入学したものの、直後から登校拒否に。担任の先生から「これで推薦はなくなりました」と告げられたときのショックは忘れられません。それでも、先生方の温かい励ましや、私自身の授業参観(参加者は私一人!という日もありました)を経て、なんとかセンター試験で大学合格を勝ち取りました。
しかし、安心したのも束の間。大学入学後、またしても登校できなくなってしまったのです。肺気胸での二度の入院、手術……。身体の不調も重なり、気がつけば「登校しているフリ」をして過ごす日々が続いていました。
22歳、大学中退からの「大逆転」
結局、息子は22歳で大学を中退しました。 当時、派遣会社に勤めていた私は、迷わず息子に仕事を紹介しました。「紹介予定派遣」として働き始め、3ヶ月後、彼は見事に正社員の座を掴み取ったのです。一番の驚きはその後です。大学の教育ローンの残金を、彼は自分のお給料で一括返済してくれました。道は逸れたかもしれませんが、彼は彼なりの責任の取り方を見せてくれたのです。
結びに:今、子育てに悩む皆様へ
子供を育て、学校に行かせることは本当に大変でした。住宅ローンと教育ローン、まさに「借金まみれ!」と必死に共働きで踏ん張った日々。
でも、それもあっという間でした。 今は、娘は結婚して仕事と育児を両立し、息子は製造業の現場で頼もしく働いています。あんなに心配した子供たちが、今ではふるさと納税でお米や油を買ってくれる「親孝行な大人」に成長してくれました。
私と夫の髪には白髪が増えましたが、それこそが必死に生きてきた証だと、幸せを感じながらこのブログを書いています。
読者の皆様。今、目の前にあるご苦労は、後に必ずお子さんが「成長」という形で返してくれます。その日を楽しみに、どうか今を大切になさってください。
今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

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