こんにちは。
厳しいタイトルで驚かれたと思います。これは、私の子供たちがまだ学生の時、父のお墓参りに来た帰りに実家に寄った時に、70代の母に言われた言葉です。お正月はどうしてるの?と聞くと、母が、「お年玉とか金かかるから、来るんじゃねえ!」と言われました。母の髪は白髪一色、鬼のような顔だったことが忘れられません。妹が建て直した新しい実家で、「鍵はここからかけられるんだぞ」と私が来ても鍵を開けないという、決意のような言い方でした。それから10年、実家には帰らなかった状況のあと、妹から、母は徘徊が始まったので施設に入ったと連絡がありました。
過去の記事でも触れましたが、あの時、私のお給料を「ちょうだい」と言った母の言葉が、すべての終わりの始まりでした。
10年の断絶、最後のお土産は干し芋
千葉県にある介護施設に入所していた母は、介護用の服を着て、転ばないようになっている靴をはいていました。お見舞いに行った時、他の入居している人と喧嘩になるから、干し芋は預かるからと施設の人に言われました。後に美味しかったと食べてくれたようでした。「もう、帰ろう」と言っていましたが、施設からは出られません。それから徐々に認知症の症状が強く出るようになりました。妹が施設に何度も足を運び、母のために尽くしてくれました。
お年玉をもらえない娘への申し訳なさと、真っ白な髪の鬼になった母
娘の高校で、お年玉の合計をいくらもらったかと言う話になり、友達は5万円くらいもらったと言い、「私は1万円だわ」と、なぜなの?と私に聞く娘。「これが家庭の事情ってもんだよ」と薄笑いしながら言った私。泣き顔を見せないための、精一杯の仮面でした。私の実家には行けない、おばあちゃんが来るなと言うからとは娘に言えなかった。たった一つのお年玉は、福岡に住んでいる義父からで、毎年必ず子供たちに1万円ずつ郵便局から振り込んでくれました。律儀なお義父さんでした。私の母より早く逝ってしまいました。でも、お義父さんの律儀な優しさは、今も子供たちの通帳と、私の心の中に温かく残っています。
子供たちが小さな頃、おもちゃをたくさん用意して遊んでくれた母
60代の母と5歳の娘と1歳の息子が楽しそうに遊んでいる写真があります。葬儀の時、妹が用意してくれたアルバムから、携帯でスキャンしておいた写真です。あの頃の母は優しいおばあちゃんでした。なぜ冷たくなったのか、私よりお金が大事だったのでしょうか。私が家を建て、住宅ローンを払うために、戦場のような会社で必死に働いて稼いだ8万円程のお給料を、「ちょうだい」と電話してきた母でしたが、「それはできない、大事なお給料だから」と断った時のキレた態度が電話の向こうで見えた時、境界線を引いてしまったのが、母には許せなかったのでしょうか。
以前の記事でも少し触れましたが、あの時、私のお給料を「ちょうだい」と言った母の言葉が、すべての終わりの始まりでした。以下にリンクを貼りました。新築の家への執着についてはこちらの記事に詳しく書きましたが、母の言葉は、私の家族を守る決意をさらに固めさせました。
リンク:住宅ローンを払うための給料を「ちょうだい」と言った母
新築の家と、母の無心。私が「境界線」を死守した理由
家の全額を住宅ローンで建てた注文住宅。家賃のような9万円近いお金を30年、絶対に払って行かねばならないのに、母の無心を許せば崩壊する家庭を想像できたので、絶対に譲れなかった。あの優しい母はどこへ行ったのか。国民年金もお小遣いとして使っていたであろう妹家族との生活で、困ることはなかったと思います。想像できたのは、母の宗教。私の血のにじむ努力でもらったお給料を、渡すわけにはいかない。母が家に遊びに来た時、5000万する家だね、と言いました。お風呂に手すりがあっていいね。和室もあるのね。と気に入ったようでしたが、息子の出産後、アパートで母から「3人目は気をつけなよ」と言われたことで、夫が母を嫌ってしまい、とても同居できる状態ではありませんでした。
コロナにかかった母が、肺炎で亡くなるまで
介護施設で流行してしまったコロナウイルス。母も移ってしまい、肺炎になり、いよいよ危ないと妹から連絡がありました。母が元気な頃、夫が案内してくれた介護施設で、鍵のかかった入り口でガラス越しに笑顔で手を振る母に会えたのが最後でした。コロナだったので看取ることもできずに、お通夜で看護婦さんから、苦しまないで眠るような最後だったと聞いて、少し救われた気持ちでした。母のお顔は眠っているような安らかな表情でした。母の人生は幸せだったのでしょうか。私は何度も生まれて来なければ良かったのにと母を許せなかった。私を産み育ててくれたのは紛れもなく母なのに、私は冷たい長女だったのでしょう。残された遺書には、妹のみ家を相続させると記されていました。遺書の内容を見て、かつての私はまた傷ついたかもしれません。けれど今の私には、その紙きれよりも、ガラス越しに見せたあの笑顔の方がずっと重い真実なのです。
ここまでお読みいただきまして、ありがとうございます。
86歳で亡くなった母。施設で楽しそうに遊んでいた写真があります。遺影にしたのは施設で撮ったまだ歯がそろっている微笑んだ顔です。毎朝、お茶とお線香をあげて、手を合わせていると、声が聞こえてくるようです。「元気なの?よかったねぇ」私たち家族を守ってくれているようです。
それは私が今の年齢になったからこそ見える景色のようです。
皆様のご家族に、幸福が届きますようにお祈りいたします。

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